プロフィール

中村榮治です。

私のメッセージをお読み頂き、ありがとうございます。

 

今回は久しぶりに、私自身のことをいろいろとお話ししてみたいと思います。

 

なぜ、そんな心境になったかは

 

 

介護タクシーを運行することで

また

介護タクシーを始めたい方たち

そして

時代の職業として

介護タクシー開業したけれど思うように稼げていない方たちから相談を受けている間に

私が実践しているスタイルを公開したら役に立つのでは・・・

そんな思いから仕事の合間を縫いながらマニュルを書き上げ、公開したことで

全国各地の多くの方たちとご縁が出来きてきたこともあり、

この機会にお話ししてみたいと思い知たことからです。

 

長くなりますので、時間のある時にでも、ゆっくりとお読み下されば幸いです。。。。。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

私が

中村式「介護タクシー開業法」なるを公開し、情報提供するようになってから2年、

 

個人営業をしている時期から 換算すると、もっと長くなります。

 

 

もうそんなに経ったのかと、まったく実感がない中で時が過ぎ、

この数年で私の人生も大きく変わりました。

 

 

気がつけば日々の稼ぎから

資産とはいえないにしても預金も出来るようになりました。

だって

世間で言うセミリタイヤとは言えない老人年齢の70歳になったこと

改めて考える年齢になっていることに気付かせられたのです。

 

 

もし、お金も時間も自由であれば、あれもしたいこれもしたいと、

夢が膨らんでいると思いますが、

 

 

ただ、私の場合は皆さんの想像するような世界とは

まったく違う過去がありました。

 

というのも、

私の場合は、このような状態にならないといけない

「必要性」があったのです。

 

私が公表しているプロフィールで見る限り

私の過去人生は美術品の傍ででしか生きて来なかったのですが

 

言葉では言い表せない

忘れることが出来ない悲劇と歓喜がありました。

思い出すのも辛いので深くは触れたくありませんが

 

私が30歳過ぎた頃には結婚を約束した女性がおりました。

彼女はフランスはパリの美術館に勤務する学芸員

私は東京丸の内にある美術館学芸員

共に離れていながらも互いに交際する機会を作っていました。

私が39歳の誕生日に合わせ

私が親しくしている彫刻作家小田錠先生が箱根彫刻の森美術館賞を受けたことで

祝賀会と私の誕生会を開くことになり

新宿小田急百貨店屋上を借り切って

互いの友人知人たち150人ほどの中に

帰国していた私の彼女を皆に紹介するため神戸呼び寄せてから参加させておりました。

31年前の8月12日です。

彼女は夕刻には用事が入っているからと途中で帰ることになり

新幹線で帰るよう促したが、乗りなれている飛行機のチケットまで用意していたのでやむなく見送ったものの、

宴もたけなわの会場スピーカーから日航機墜落の臨時ニュースが聞こえたのです。

私は瞬間、もしや・・・・

 

そのもしやだった。

 

私の苦しみは、この日から始まりました。

私が東京へ呼んだばかりに・・・

この苦しみは上野御巣鷹山へ春夏秋冬3年16回と通わせました。

すまん・・・・

ただただ詫びるしかなかった。

そして

私は一生結婚しない!

そう決めた時でもありました。

 

やがて

私の心境は彼女の仕事場だったパリの美術館へ向かせるようになり

休暇を取るなりパリへ向かっていた・・・

しかし

同じ美術品の中でも

唯一収集欲が強かった中で世界のガラスをコレクションしていた私は

次第にパリのみならず

英国、イタリアと足を延ばしコレクションの数を増やすようになっていた。

特に

紙のように薄いガラスを求めてヴェネチュアにはどれだけ通ったことか。

いつも間にかコレクションの数は600点に達していました。

これは

ガラスコレクションを夢中にさせたのも頭にこびりついて離れない

私が死へ追いやったような彼女を忘れるための真逆行動だったかもしれません。

 

同時に

私の思いは、もちろん一生結婚しない!

そんな叫びがガラスコレクションに没頭させたのかもしれません。

 

 

◇◇◇

ここから、歓喜の時代に入ります。

 

ガラスは、あくまでもコレクションでしかありませんでしたが、

 

やがて

自分だけの楽しみではなく、

誰かに見てもらいたい、

一緒に楽しめる場所が欲しい・・・

 

そんな思いが出てきたころ

歌舞伎の先代団十郎などが出入りする料理屋だった実家の母親も70歳を超え

現役から退き、店舗も1階のみにし、2階を開けることになった機会を利用して

私のコレクション展示場にしました。

そして

私がいる時だけ開放して1年も過ぎたころ

私が自分で作成したホームページを見て来たという中国人2人

それが

中国文化局からだという

中国人が、なぜ私のコレクションに用事がある?

ようやく通じるカタコトの日本語を話す2人に尋ねると

 

中国には、陶器美術館があってもガラス美術館はない

だからどうした?

そんな質問でもしたのでしょう。

 

すると

ぜひ、中国で展示するため貸してもらえないだろうか?

 

私は驚きのあまり、2人を見つめ直した時だった。

あまりにも呆れたからだった。

 

突然来て

持ちろん、売りはしないが、

例えば、売ってくれませんか、

とか

買い取るというなら、まだしも

貸してほしい、とんでもないこと。

 

私は帰ってもらうことに必死でした。

 

ところが、やがて

次の日曜日になると再びやって来て

今度は賃料交渉だった。

 

4回目の時には具体的に

賃料として1ケ月

日本円で50万円支払うという。

 

絶対的に聞く耳を持たなかった私は

心の中で

ええええ!!

 

そして

ほんとに私のコレクションが美術館の陳列場へ展示されるのか~ほんとに!!

考えたこともないことを考え始めたのです。

 

ほんとの話なのか

私は、考えたこともないことを考え始めたのです。

そして

現地へ行ってみることOKか?尋ねると

もちろんOKだという。

 

私は行きました。

そこは

中国大連市だった。

 

そして

 

空港へ迎えに来ていた運転付きの車輛に同乗したのは

大連市の職員と大連工業大学教授だという老人風と

中国語を話せない私には女性通訳を付けてくれていた。

 

まずは展示場になる建物と称する場所へ案内され

市長就任から20年を記念する建物として建築中であったが

8階建ての外観は出来上がっていた。

3階までストレ―トエスカレーターが設置され、円形の建物であった。

 

日本へ来ていた一人は通訳を返して

あなたが展示品を許可するなら、この建物のどの階を選びますか?

彼女は、そう通訳した。

 

私の頭の中は、これは本物の話かも・・・

次第に、その気になってきた私は

このエスカレーターに乗ってもいいですか?

そして

3階までのエスカレーターへ乗り込んで3階へ着くと

まだ内装のないその部屋へ向かっていた。

エスカレーターに乗って円形の建物・・・

その中に、私のコレクションが展示される・・・

頭の中は、すっかり現実味がある想像させていた。

 

はい、わかりました。

展示場はこの場所にさせていただけるならOKしましょう!

私は、そう浮足立った声で通訳の女性に向いて伝えた。

 

やがて

帰りの時間まで2時間ほどあったので

レストランの円卓で食事に誘われ、宿泊せずに帰国の途に就いたものの

突然湧いて出た夢のような話に

ほんまかいなあ~

飛行機の中では反芻していたのである。

 

 

しかし、

私は、寝ても覚めても大連のエスカレーター直行の3階円形室が頭から離れない日が続き、

その後も確認をするため4回もの大連入りをしていたのです。

もちろん、通訳の女性を通じて連絡をしてのことですが。

やがて

5ケ月が過ぎた頃

建物の内装に入るので設計図面を私に任せるとの連絡が入ったのです。

えええ!

もとろん、驚きました。

私は自分のコレクションが点される展示図面も自分させてもらえるとなれば

叶ったり叶ったりという喜びでしかありませんでした。

かつて

ガラス展示場がある国内の美術館へ行ったこともある北海道はベネチュアガラスコレクションの小樽美術館を皮切りに

箱根に新設されたベネチュアガラス小樽美術館長野は諏訪湖にある北沢美術館、長崎の雲仙ビードロ美術館など巡り、

図面書しながら、名刺を差し出して理由を告げ館長や学芸員と面会し情報を得たことは

益々自分美術館的興奮を覚えた時でもありました。

 

やがて

時は中国赤い星印の契約書を交わす時期も決まり

コレクションガラスを木枠の中へ入れるための梱包作業をしている時も

頭の中は開館後の自分コレクションガラスが珍列されている想像でいっぱいでした。

 

私のコレクションガラスたちは

600キロの厳重な木枠に入り、大森の船便へ移動されたのは

私が8回目の大連行きとなる契約日の2日前でした。

 

◇◇◇

 

契約当日

大連市関係者6人と、

私の隣に着いてくれた通訳の女性は

円卓に乗せられた中国料理らしい数々と紹興酒の瓶が数本並んでした。

 

契約の前の宴席のようだった。

私は臨席する通訳女性に

一般的には契約が済んでからの宴席ならわかるんだが…

そう尋ねると

はい、中国でもそんな形だと思いますが…

流暢な日本語が帰ってきた。

小さなガラスコップにつがれた紹興酒は

皆一口で飲み込むので3杯、4杯と飲んでいる。

ところが、私自身はお酒を飲めない時代でした。

(註:若いころは飲めませんでした)

 

宴席の雰囲気は日本から来た私を理由に宴会しているように見え、

書面に書いている契約内容の概略を説明してくれるよう彼女へお願いした。

 

すると

私の前席にした職員は飲んでいた杯をテーブルに置くと

中国語で説明し始めた。

そのとき

彼女は私の顔に向き、

部屋の外へ誘うように立ち上がった。

私も一緒に出ると

彼女の口から

貸借期間の説明をしていましたが、

期限は永遠にと言っています。

つまり

中国語の永遠は返す期日がないという意味です。

これを聞いた私は

もう一度確認するよう彼女へ伝え、再び中へ入った。

彼女は再々問いただすと

やはり同じ回答で「離縁と言いました」こう聞こえたのです。

 

私は体中化が寒気を感じるほど

恐ろしさを感じた時でした。

 

改めて

もう一度繰り返し尋ねると

「50万円は支払うから期限なしにしてほしい」

好通訳をした。

 

私は

彼女へ電話をさせてくれるところを尋ね

レストランの電話から

すでに集荷して私の出荷合図を待っている大井ふ頭事務所へ電話し

出発ストップを告げた時でした。

 

やがて

大連での美術館構想の夢破られた夜はいたたまれず

かといって

一人で酒飲みすることも出来ない私を憐れんだのか

通訳の彼女かホテルの部屋にいる私に電話が入り、

一緒に食事でもどうですか?

 

泣きたくなるような私の気持ちにピッタリの誘い救いの電話だった。

 

私を日本へ連れて行ってくれませんか?

私は日本へ行くために日本語を勉強しました。

 

 

===========================

 

 

中村榮治です。

私のメッセージページを開いていただき、

ありがとうございます。

 

これまで私自身のことはプロフィールでお伝えしてきましたが

プロフィールでは言えないと言うより

語り切れないほどの量がある私自身の過去を話してみたくなりました。

 

 

なぜ、

そんな心境になったか

 

 

子供のころから絵を描くことに没頭し

絵描きになるのかと思いきや

絵描きの自信を無くしたのか

常に好きな美術品の傍にいられる美術館学芸員になり、

気付いた時には定年目前だった。

 

他になんの取り柄も技術もない定年後を心配しているころ

通院する母親を病院へ連れて行ったとき

外来入口に止まる介護タクシー看板の後部リフトから車いすに乗ったままの車輛を見て

これからの仕事はこれだ!

こう決めてからすでに8年目。

 

 

何にでも没頭する癖がある自分を見つめ直そうとした矢先の2年ほど前

FC参加の近隣同業者から

中村君はどうしてそんなに忙しいんだね・・・

そんな相談をされたことがきっかけで

 

自分が実践しているスタイルを公開したら役に立つのでは。。。。

そんな思いから実践ノウハウのマニュアル制作に没頭し、公開したら

今では全国各地に200人をl超える購入会員がいることから、そのサポートに没頭している。

 

気付いたら70歳になっていた。

 

特別大きな持病もなく動けるありがたさもありますが

自分整理も含めて年齢に嘘はないので

元気なうちにお役立ちしたい思いから介護タクシー開業サポ-トをしているうちに

全国各地の多くの方たちとご縁が出来て来たこともあり、

この機会にお話ししてみたいと思い知たことからです。

 

 

長くなりますので、時間のある時にでも、ゆっくりとお読み下されば幸いです。。。。。

 

 

◇ ◇ ◇

 

 

私が

中村式「介護タクシー開業法」なるを公開し、情報提供するようになってから2年、

個人営業をしている時期から 換算すると、もっと長くなります。

 

もうそんなに経ったのかと、まったく実感がない中で時ばかりが過ぎ、

この数年で私の人生も大きく変わりました。

 

 

気がつけば日々の稼ぎから

資産とはいえないにしても預金も出来るようになりました。

だって

世間で言うセミリタイヤとは言えない老人年齢の70歳になったことで

改めて考える年齢になっていることに気付かせられたのです。

 

 

もし、お金も時間も自由であれば、あれもしたいこれもしたいと、

夢が膨らんでいると思いますが、

このままでは夢膨らむどころか、夢描くことすら出来ないのでは。

 

ただ、私の場合は

皆さんの想像する世界とは

まったく違う過去がありました。

 

というのも、

大人になっての私の場合は、没頭状態にならなければならない

「必要性」があったからです。

 

私の公表プロフィールで見る限り

私の過去人生は美術品の傍ででしか生きて来なかったのですが

 

言葉では言い表せない

忘れることが出来ない悲劇と歓喜がありました。

思い出すのも辛いので深くは触れたくありませんが、

 

私が30歳過ぎた頃には結婚を約束した女性がおりました。

彼女はフランス・パリの美術館に勤務する学芸員

私は東京丸の内にある美術館学芸員

共に離れていながらも互いに交際する機会を作っていました。

私の39歳誕生日に合わせ

私が親しくしている彫刻作家小田錠先生が箱根彫刻の森美術館賞を受けたことで

新宿小田急百貨店屋上を借り切って先生の祝賀会と私の誕生会を同時開催することになり

互いの友人知人たち150人ほどの中に帰国していたフィアンセの彼女を紹介するため、実家の神戸から参加させていました。

1985年(昭和60年)8月12日月曜日のことです。

 

彼女は、

用事が入っている夕刻時間に合わせ途中で帰ることになり

新幹線で帰るよう促したが、乗りなれている飛行機のチケットまで用意していたのでやむなく見送ったものの

宴たけなわ会場スピーカーから日航機墜落の臨時ニュースが聞こえたのです。

私は瞬間、もしや・・・・

 

そのもしやだった。

 

私の苦しみは、この日から始まりました。

私が東京へ呼んだばかりに・・・

この苦しみは上野御巣鷹山へ春夏秋冬3年16回と通わせました。

すまん・・・・

ただただ詫びるしかなかった。

そして

私は一生結婚しない!

そう決めた時でもありました。

 

やがて

私の心境は彼女の仕事場だったパリの美術館へ向かせるようになり

休暇を取るなりパリへ向かっていた・・・

 

しかし

同じ美術品の中でも

唯一収集欲が強かった世界のガラスをコレクションしていた私は

次第にパリのみならず

英国、イタリアと足を延ばしコレクションの数を増やすことに没頭していた。

 

特に

紙のように薄いガラスを求めてヴェネチュアにはどれだけ通ったことか。

いつも間にかコレクションの数は600点に達していました。

これは

ガラスコレクションに没頭したのもたのも

私が死へ追いやったような彼女を忘れるための真逆行動だったかもしれません。

 

同時に

私の思いは、もちろん一生結婚しない!

そんな叫びがガラスコレクションに没頭させたのかもしれません。

 

 

◇◇◇

ここから、歓喜の時代に入ります。

 

ガラスは、あくまでもコレクションでしかありませんでしたが、

 

やがて

自分だけの楽しみではなく、

誰かに見てもらいたい、

一緒に楽しめる場所が欲しい・・・

 

そんな思いが出てきたころ

歌舞伎役者先代団十郎などが出入りする料理屋だった実家の母親も70歳を超え

現役から退き、店舗も1階のみにし、2階を開けることになった機会を利用して

私のコレクション展示場にしました。

そして

私がいる時だけ開放して1年も過ぎたころ

私が自分で作成したホームページを見て来たという中国人2人

それが

中国文化局からだという

中国人が、なぜ私のコレクションに用事がある?

ようやく通じるカタコトの日本語を話す2人に尋ねると

 

中国には、陶器美術館があってもガラス美術館はない。

だからどうした?

そんな質問でもしたのでしょう。

 

すると

ぜひ、中国で展示するため貸してもらえないか?

 

私は驚きのあまり、2人を見つめ直した時だった。

あまりにも呆れたからだった。

 

突然来て

持ちろん、売りはしないが、

例えば、売ってくれませんか、

とか

買い取るというなら、まだしも

貸してほしい、とんでもないこと。

 

私は帰ってもらうことに必死でした。

 

ところが、やがて

次の日曜日になると再びやって来て

今度は賃料交渉だった。

 

4回目の時には具体的に

賃料として1ケ月

日本円で50万円支払うという。

 

絶対的に聞く耳を持たなかった私は

心の中で

ええええ!!

 

そして

ほんとに私のコレクションが美術館の陳列場へ展示されるのか~ほんとに!!

考えたこともないことを考え始めたのです。

 

ほんとの話なのか

私は、考えたこともないことを考え始めたのです。

そして

現地へ行ってみることOKか?尋ねると

もちろんOKだという。

 

私は行きました。

そこは

テレビで見る汚れた中国ではなく

緑が多い

いわば軽井沢の雰囲気をかもした中国大連市だった。

 

 

空港へ迎えに来ていた運転付きの車輛に同乗したのは

大連市の職員と大連工業大学教授だという老人風と

中国語を話せない私には女性通訳を付けてくれていた。

 

まずは、展示場になる建物と称する場所へ案内され

市長就任から20年を記念する建物として建築中であったが

8階建ての外観は出来上がっていた。

3階までストレ―トエスカレーターが設置され、円形の建物であった。

 

日本へ来ていた一人は通訳を返して

あなたが展示品を許可するなら、この建物のどの階を選びますか?

彼女は、そう通訳した。

 

私の頭の中は、これは本物の話かも・・・

次第に、その気になってきた私は

このエスカレーターに乗ってもいいですか?

そして

3階までのエスカレーターへ乗り込んで3階へ着くと

まだ内装のないその部屋へ向かっていた。

300平方あるという。

エスカレーターに乗って円形の建物・・・

その中に、私のコレクションが展示される・・・

頭の中は、すっかり現実味ある想像世界だった。

 

はい、わかりました。

展示場はこの場所にさせていただけるならOKしましょう!

私は、そう浮足立った声で通訳の女性に向いて伝えた。

 

やがて

帰りの時間まで2時間ほどあったので

レストランの円卓で食事に誘われ、宿泊せずに帰国の途に就いたものの

突然湧いて出た夢のような話に

ほんまかいなあ~

飛行機の中では反芻していた。

 

 

 

私は帰国後も、

寝ても覚めても大連のエスカレーター直行の3階円形室が頭から離れない日が続き、

その後も確認をするため4回もの大連入りをしていた。

もちろん、通訳の女性を通じて連絡をしてのことですが。

 

 

やがて

5ケ月が過ぎた頃

建物の内装に入るので設計図面を私に任せるとの連絡が入った。

えええ!

もとろん、驚きました。

 

私は自分のコレクションが展示される図面も任されるとなれば

叶ったり叶ったりの喜びでしかありませんでした。

 

やがて

国内のガラス美術館へ行ったことがある北海道はベネチュアガラスコレクションの小樽美術館を皮切りに

箱根に新設されたベネチュアガラス術館、長野は諏訪湖にある北沢美術館、長崎の雲仙ビードロ美術館など巡り、

理由を告げ館長の許可を許可を受けて図面書し、美術館jとしての情報を得たことは

益々自分美術館的興奮を覚えた時でもあった。

 

8回目の大連入りしたのは

中国赤い星印をもらう契約時期だった。

600点すべてのコレクションガラスを木枠の中へ入れるための梱包作業をしている時も

頭の中は開館後の自分コレクションが珍列されている想像でいっぱいだった。

 

私のコレクションガラスたちは

500キロの厳重な木枠に入り、大井ふ頭の船便へ移動されたのは

私が8回目の大連行きとなる契約日2日前だった。

 

◇◇◇

 

契約日当日

大連市関係者6人と、

私の隣に着いてくれた通訳の女性は

円卓に乗せられた中国料理らしい数々と紹興酒の瓶が数本並んでした。

 

契約前の宴席のようだった。

私は臨席する通訳女性に

一般的には契約が済んでからの宴席ならわかるんだが…

そう尋ねると

はい、中国でもそんな形だと思いますが…

流暢な日本語が帰ってきた。

小さなガラスコップにつがれた紹興酒は

皆一口で飲み込むので3杯、4杯と飲んでいる。

私にも注がれたが、

契約前に酔う訳にもいかず、一口で残していた。

 

宴席の雰囲気は日本から来た私を理由に宴会しているように見え、

書面に書いている契約内容の概略を説明してくれるよう彼女へお願いすると、

私の前席にした職員は飲んでいた杯をテーブルに置き

中国語で説明し始めた。

 

そのとき

彼女は私の顔に向き、

部屋の外へ誘うように立ち上がった。

 

私も一緒に出ると

彼女の口から

貸借期間の説明をしていましたが、

期限は永遠にと言っています。

つまり

中国語の永遠は返す期日がないという意味です。

これを聞いた私は

もう一度確認するよう彼女へ伝え、再び中へ入った。

 

彼女は再々問いただすと

「やはり同じ回答で永遠と言いました」

こう聞こえたのです。

 

私は体中が寒気を感じるほど

恐ろしさを感じた時でした。

 

改めて

もう一度繰り返し尋ねてもらうと

「毎月50万円は支払うから期限なしにしてほしい」

こう通訳をした。

 

私はしばらく、ぼんやりしていたが

 

彼女に、日本へ電話をさせてくれるところを尋ねると

レストラン内の電話へ案内した。

 

すでに集荷して私の出荷合図を待っている大井ふ頭事務所へ電話し

荷物の出発ストップを告げたのだった。

 

やがて

大連でガラス美術館構想の夢破られた夜はいたたまれず

一人で酒飲みする気にもなれないでいるころ

通訳の彼女からホテルいる私の部屋に電話が入り、

 

良かったら、一緒に食事でもどうですか?

 

泣きたくなるような私の気持ちにピッタリの救いの電話だった。

 

ロビーで待っていた女性は

思い通りにならかったみたいで

残念ですね

中国人として申し訳ありませんでした。

 

こう言ったのです。

 

いやあ~あなたのせいではありませんよ。

さあ、どこか食事する場所を案内してくれませんか?

夕日が沈みかけた夕刻だった。

 

私はあまり外食することありませんが

会議で利用するレストランが近くにありますので

そちらでどうでしょうか?

そう言って歩き始めた。

 

大連には

現地視察や今回の打ち合わせ等で

すでに8回目になっていた。

つまり

彼女とも8回目だったが、二人だけで食事するのは初めてだった。

 

紹興酒と料理が運ばれて来ると

私は飲めないという彼女の杯に注ぎ

私に注いでくれた彼女と杯を合わせた。

 

私も飲んでみるわ

 

そう言ってから

彼女は少しづつ何度か分けてなめるように飲んでいた。

飲めるじゃないの!

私がそう言うと

飲めないけれど、飲んでしまったわ。

そう言って、にっこりした。

杯の中は半分ほどになっていた。

 

それにしても

日本語が上手ですねえ。

 

大連には日本企業が多くあるので

日本語学校もあります。

私は日本語学校で日本語を学びました。

 

そう話してから

少し下向きになり、紹興酒が残っている杯を見つめるように

 

実は、私は日本へ行きたいです。

私は日本へ行くために日本語を勉強しました。

私を日本へ連れて行ってくれませんか?

 

すでに8回目の対面とは言え

二人会話する機会はなかっただけに

 

これを私に言うために誘われたのか

そんな思いが複雑さを残した。

 

しばらく二人には会話が途切れ

私は手酌で紹興酒を口にしていた。

 

それはどういう意味ですか?

そう尋ねたかったが、言葉にならなかった。

 

すると

中村さんは、

もちろん結婚していますよね?

 

それに対し

事情があって結婚していませんが・・・

そう言いたかったが、顔を横に2階振るだけだった。

結婚していないんですか?

年齢は?

そう言って、下向きの顔を私に向けた。

 

 

つづく

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